Vol. 36

清廉な空気と涼しさ正統の避暑地、軽井沢で過ごす夏

小鳥のさえずりで目を覚まし
星のまたたく夜空を愛でる
美しく豊かな自然と
上質な異国情緒に浸る旅

時代とともに変わりつつ、普遍を宿す軽井沢

軽井沢、という地名に対するイメージは年代によってクッキリと異なる。若い世代にとっては東京から新幹線で1時間強、アウトレットやハルニレテラスを目的に訪れ、日帰りでも楽しめる近場の行楽地といった印象。少し上の世代の脳裏には、アンアン、ノンノといった雑誌を片手に訪れた女子大生で賑わう旧軽銀座が思い浮かぶかもしれない。横川駅で「峠の釜めし」を買い求め、信越本線で碓氷峠を越えた思い出が一緒に喚起される、という人も多いはずだ。さらに年配の人々にとっては、上皇陛下、美智子さまのテニスコートの恋に象徴される上流階級の社交場としての、ハイソな別荘地といった印象が強いだろう。いずれも青春の日の夏の情景が思い起こされる土地柄だ。


外国人宣教師によって拓かれた夏のリゾート地

軽井沢は古来、中山道の主要な宿場町として栄えていたが、明治19年(1886)、ひとりのカナダ人宣教師が別荘を建てたのを皮切りに、避暑地としての歴史が花開く。宣教師は名をアレキサンダー・クロフト・ショーといい、氏の家族や友人たちに軽井沢の涼しい気候と自然の美しさを話して聞かせたという。明治20年代には大勢の外国人宣教師が次々に別荘を建て、暑さに弱い欧米人にはことのほか過ごしにくい日本の夏を清涼な軽井沢で過ごした。
大正時代に初めてこの地を訪れた堀辰雄は、友人に宛てた手紙に「みんな活動写真のようなものだ。道で出逢うものは、異人さんたちと異国語ばっかりだ。」と書き送っている。この頃には外国の文化や生活がすっかり土地に根付いていたのだろう。
さらに第二次世界大戦が始まると、軽井沢は外国人の疎開地となる。三笠ホテルに外務省の出張所が設けられ、万平ホテルにはソ連とトルコの大使館、深山荘にはスイスの公使館が置かれるなど、小さなエリアに世界各国の生活様式が凝縮する。異国文化は日本の文化と溶け合って、軽井沢の文化そのものになっていったのだ。


上質な物や味に囲まれた快適な夏休暇

現在でも、軽井沢には宣教師が伝えたままのレシピで焼いたパンを扱う店や、ロシア革命から逃れてきたロシア人貴族の末裔が経営するカフェなどがあり、パン、コーヒー、ジャム、ソーセージといった西欧由来のベーシックな食品のクオリティが高い。また、100軒を優に超す外国料理店が集まるエリアでもあり、野菜をはじめとする食材がおいしい。
さらには、古い教会や由緒あるホテル等も建設当時のままの姿を残し、宣教師や文人など錚々たる人物が時を過ごした別荘をリノベーションしたカフェやショップ、軽井沢彫りと呼ばれる日本人職人による西洋家具、老舗の洋食店など、和洋のエッセンスが融合した物品も多数あり、軽井沢固有の風景を成している。
時代の変化によってもたらされる文物を柔軟に吸収し、クオリティの高いものだけを残していく軽井沢。都会の酷暑を離れ、高原の涼しい気候の中で上質なものに囲まれて過ごす夏は、快適さと知的好奇心とを共に満たす。国内最高峰の避暑地ならではの特別な休暇となるだろう。


画像素材:PIXTA


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