Vol. 30

万葉集のふるさと奈良を歩いてニッポンの歴史を振り返る

1500年もの時を超えて
大化から令和に続く
日本の風景と四季、
人々の喜怒哀楽を体感する

新たな元号の礎、万葉集を紐解く古都の旅

平成に続く新元号が決まった。「令和」というのだそうだ。典拠は史上初めて四書五経などの中国古典ではなく、日本の万葉集に求めたという。万葉集と言えば日本でもっとも古い元号、「大化」の頃から100年以上にわたって詠まれた歌を集めた歌集。もっとも古い元号の時代に紡がれた言葉の中から、もっとも新しい元号が生まれたことになる。


これを機会に改めて万葉集を開いてみると、集められた歌の膨大な数と多様さに驚く。天皇、貴族から「詠み人知らず」とされる名もなき庶民まで、身分や男女を問わない大勢の人々による4500首以上もの歌が並び、一首一首を読めば、すでに母親を亡くしている我が子を置いて自分までもが出兵せねばならぬ父親の悲哀や、母に背いてまで恋を貫く娘の複雑な気持ち、旅に出る一人息子の無事を祈る母の痛切な愛など、現代を生きる私たちとなんら変わりのない1500年前の人々の情景と心情が瑞々しく、映画の1シーンのようにありありと繰り広げられている。
また、7~8世紀にはすでに朝廷の影響力がかなり広域に渡っていたこともうかがわれる。歌に詠み込まれた地域は、現代の私たちが想像するよりはるかに広く、北は陸奥山、多賀城(宮城)、安達太良、会津嶺(福島)、弥彦、佐渡(新潟)から、南は鞆の浦(広島)、熟田津(愛媛)、高千穂(宮崎)、薩摩(鹿児島)まで、東北、北陸、関東、東海、近畿、中国、四国、九州と、北海道と沖縄を除く現在の日本地図全域をほぼカバーしている。大伴家持が国守として赴任した越中国(富山)や、防人たちが派遣された九州北部が舞台となった歌もたくさんあるが、やはり、朝廷の置かれた近畿エリアの歌が傑出して多く、とくに藤原京や平城京の置かれた奈良には、万葉集に納められた歌の舞台や痕跡が多数、残されている。


奈良をとり囲む大和三山

「香具山は 畝傍ををしと 耳梨と 相あらそひき 神代より かくにあるらし いにしへも 然にあれこそ うつせみも 嬬を あらそふらしき」。いまも奈良を訪れる人々が必ず目にする畝傍山、耳成山、香具山を詠んだ中大兄皇子の歌だ。中臣鎌足とともに日本史上、最初の元号である「大化」という時代を作った最大の立役者であり、後の天智天皇となる人物である。蘇我入鹿を討ったのを皮切りに、大化の改新と呼ばれる一連の改革案を次々と立案、実行した、日本史上屈指のキーパーソンだ。政敵の命をも奪う陰謀や海を渡っての戦争も辞さない硬派な政治的リーダーの作ながら、この歌のテーマは道ならぬ恋。直訳すると「香具山が畝傍山を妻にしようと耳梨山と争っている、神代の昔から変わらないらしい」という内容で、3つの山を男女に見立てた三角関係は、いまも奈良の人々に伝わる伝説だが、大化の頃には既に人々のあいだに広く浸透していたようだ。
実際、中大兄皇子は当時を代表する女流歌人、額田王を巡って弟である大海人皇子との三角関係にあったとされており、万葉集には「茜さす 紫野行き しめ野行き 野守は見ずや 君が袖振る」、「紫草の にほへる妹を憎くあらば 人妻ゆえに 吾恋ひめやも」という額田王、大海人皇子の相聞歌がある。
この2首は歌碑となって奈良県橿原市白橿町の沼山古墳に建てられているが、ほかにも、奈良には、万葉集に歌われたのままの景色や歌碑が数多く現存する。


歌をよすがに古代の景色の中に立つ

また、額田王は飛鳥から近江への遷都の際、「三輪山を しかも隠すか 雲だにも 心あらなも 隠さふべしや」(雲よ、心があるなら、見納めかもしれない三輪山を隠さないで)と詠み、「歌聖」とも呼ばれる柿本人麻呂は「おとめ等が 袖布留山の 瑞垣の 久しき時ゆ 思ひきわれは」(布留山の石上神宮の社同様、私も長い年月、君に恋してきたのだな)と歌った。三輪山はもちろん、日本最古の神社のひとつでもある石上神宮も現存しており、1500年の年月を経てなお歌が残す人々の感情と、往時そのままに広がる目前の景色を共に味わう贅沢は、大化から令和に到る長い年月にこの国を守り暮らしてきた先人たちが私たちに残してくれた、奇跡ともいえる喜びだ。
万葉の歌を携えて往時の景色をたどり、古都を歩く。新時代へと移るいまこそ楽しみたい時空を超えた旅である。


画像素材:PIXTA


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